環境、自然、大量消費とリサイクル


何の隠れみの

見てくれ、体裁だけのリサイクル、騙す方も騙される方も百害あって一利無し急場しのぎの、へ理屈を

体裁良く整えても、なんの解決にもなりません。

地球にやさしい、自然にやさしい、などと地球を、自然を、自分らで作ろう、変えようとする発想もなにか

うぬぼれが感じられる。地球の支配者は人間じゃない。人間が自分らの生活に不都合が生じ、あるいは

不便になってきたから、こんな事をのたまってきた。人間の都合で地球にやさしくなったり、自然にやさし

くなったりするものではない。人間の都合で保護したり、駆除したりするものではない。もっと
謙虚に地球

に抱かれようではないか。

行き詰まり、弊害が出てから、改革の重い腰をあげる。しかもとことん最悪の状態を見せ付けられてから、

たとえば、ごみ、廃棄物処理場問題、これも、捨て場所が無い、捨て場所が満杯だ、困った、困った。

だからリサイクル。だから資源をたいせつに。なんか違う、どこかが違う。順序が違う。

ごみを出すのは?、廃棄物を出すのは?、自分たちです。人間です。無駄のために、無駄に使い、無駄

を出す。困った問題だ、と誰もがもっともらしく唱えるけれど、誰一人その原因が自分だとは思っていない。

(思っている人ごめんなさい)思ってはいるけど何をどうすればいいものやら解らん、などと、すんなり納得

し、そして思いは終了するのです。

リサイクルを唱えればただそれだけでイメージアップ、とか、自然にやさしい、とか、とにかくイメージだけ

が先行する、どこか、いい加減な、実態を見ない、本質を見ない、うわべだけの環境論議が、

自分はさておき、の第三者の論議が、熱烈に飛び交っているのでは?。

身に降りかかった災難のための環境論議ではなく、もっと根源的な実のある論議をお願いします。
リサイクル

コストが高い、業として成り立たない、新品の方が安い。いつからこんな馬鹿な現象が、なんとも無駄な

事がまかりとうる様になったのか。壊れたら捨てる、飽きたら捨てる、保管場所が無いから捨てる。そして、

そして、捨て場所が無い。

リサイクルのコストと物を捨てるコスト、こんな比較が出来ているうちが花かも、そのうちコスト以前に呼吸が

出来なくなるかもよ、そのうちに空気清浄器を背負って通勤なんて事になりかねないですね。

リサイクル、再利用、循環、これらの言葉は、物を作る、作り直す、利用方法の変更、期待できる対効果

の再考、等々それぞれの心に、それぞれの体に、価値、思考の再構築が必要な時期にきているのでは。

環境問題、自然問題はじつは社会問題ではなく、人間が抱えている人間自身の心の病が根源なのかも。

果てしなく遠回りのようではあるが。

大量消費が前提の現代の経済社会において、全ての人々がその社会のメカニズムの一部分として組み

入れられ、何らかの役割をにない、恩恵を受けているのである、この大量消費をやめ、リサイクル社会に

移行するということは口で言うほど簡単なものではない。

メーカー、流通、販売、消費、このシステムのどこかでそれぞれが機能し生活しているのであれば、自分

で自分のくびを絞める覚悟がなければ、この社会システムの変革の論議も、このブームも、この国特有の単

なる一過性の風説で終えてしまう。

それぞれが、もしかすれば必要の無いもの、無駄なものを作り、必要のないこと、無駄な部分をになって、

この大量消費社会の一部分として活動していることは明白な事です。

認めたくはないと思いますが、そんなことでは済まないところまで現実は差し迫っているのです。

現状認識の甘い、楽天的国民はそれに気が付いてくれるのだろうか。

 

 

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